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 湖畔には、美しい笛の音(ね)が響いていた。
 柔らかく地面を覆う下生え、底まではとても見通せそうにない深い青の湖面、そしてそれらを緩やかに揺らす微かな風までもが、まるで、その音色に敬意を示すかのように、物音一つ立てず息を潜めている。
 風に乗り、どこまでも天高く響く調べ。
 それは、たかが笛の音一つと侮るにはあまりにも壮麗で、それを聴く者の魂を、心地好く魅了した。
 水面から顔を出した、幾人かの水の乙女が、思い思いにくつろぎながら、うっとりと耳を傾けている。
 いかな神々の住処オリュンポスといえど、ここまでの音楽を奏でられる名手は、そうはいない。
 ……その時ふと、笛の音が止んだ。


 優雅に腰を下ろして、音色を紡ぎ出していた青年は、衣擦れの音と共に立ち上がる。
 肩に落ちかかる黄金色の髪が、彼の動きに従い、滑らかに揺れた。

「あら。止める事はないのよ」

 ただの言葉すらも芸術の域にまで高める、麗しい声が空気を伝播し、青年は、にっこりと笑んだ。
 その声を聴く事のできた幸運と、この偶然の出会いに対する幸運に。

「これは、母上。ご機嫌麗しゅう」

 青年の大きな手が、それとは対照的なほっそりとした指を、恭しく取った。

「ええ。久しいこと、ヒュメン」

 母と呼ばれた女性もまた、柔らかく微笑む。
 けれど何も知らぬ人間が、その光景を見たとして、彼らが母子である事を見破れる者はいないだろう。
 華やかな衣をまとってたたずむ乙女は、少女と称してもおかしくはない可憐さで、しかしその瞳に瞬く深い理知の光が、彼女がただの娘ではない事を雄弁に物語る。
 乙女の名はカリオペ――神の国オリュンポスにおいて、誰もが最高位と讃える至高の歌姫にして、芸術の女神ムーサの長姉である。

 彼女と向かい合う青年もまた、神の国の住人に相応しい容姿を備えていた。
 豊かな金の髪はさらさらと揺れて背に落ち掛かり、端麗な面(おもて)を彩る宝玉のような瞳は、闊達(かったつ)に輝いている。
 すらりとした長身痩躯には、けれど軟弱な所などまるでなく、長い手足は若木のようにしなやかだった。
 ただの人の娘であれば、その姿を一目見ただけで恋に落ち、身も世もなく焦がれても不思議ではない。……否、人に限らずとも。
 それを証明するように、少し前まで笛の音に聴き惚れていた精霊の乙女達は、音色が途切れてもなお夢見るような瞳で、若々しい男神を見つめ続けている。

 彼、ヒュメンは、女神カリオペが、太陽神アポロンとの間に儲けた息子である。
 それを聞けば誰しもが、陽光の輝きを纏ったかの如きヒュメンの非の打ち所ない容姿に対し、納得の嘆息を漏らすに違いない。
 そこかしこから、息を潜めるようにして息子に秋波(しゅうは)を送る精霊達に、ちらと視線を投げかけると、カリオペは、己の手を握ったままのヒュメンに言った。

「おまえの笛の音は本当に素晴らしいけれど、あまり罪な事をしないように」

 気の毒な娘達の心を悪戯に掻き乱すものではない、と釘を刺す母の言葉の真意には気付かぬように、ヒュメンは快活に笑ってみせた。

「異な事を。私の笛などほんの手慰み、母上の歌声や、我が弟オルフェウスの竪琴に比べれば、足元にも及ばぬものに過ぎません」

 彼の口から、母を同じくする弟の名が、柔らかく零れ落ちる。
 そんな息子の姿を目の当たりにしたカリオペは、瑞々しい果実のような唇に、微苦笑を浮かべてみせた。

「そのように簡単に、兄が弟に劣っているなどと」
「いいえ母上、本心ですとも」

 ヒュメンの声に、偽りの色は一切見られなかった。
 オルフェウスはカリオペが、人との間に儲けた息子であり、ヒュメンとは異父兄弟にあたる。
 太陽と月のようなこの兄弟は、けれど神と人という垣根を越えてさえなお、仲が良かった。
 現在、ヒュメンがその心を最も多く割り裂いている相手は、花のように清らかな女神でも、妖艶な精霊でもなく、ただ一人の弟に他ならない。

「それに私の役目は、恋を成就した者達に祝福を与えること。自らが与えられる事ではありません」

 ――ヒュメンは、婚儀に祝福を添える神である。
 新たに夫となり、妻となる男女の元に降り立っては、煌く松明でその前途を照らし、祝婚歌を歌う。それが神としての彼に与えられた役割だ。
 ヒュメンの訪れは、新婚夫婦にとって、幸福な未来を約束されるに等しい。太陽の化身の如き輝かしい姿は、新たに夫婦となる男女に、光と安寧をもたらす。
 ……そこには例外も、確かに存在しないではなかったが。

「そうでしたね」

 屈託のない息子の笑みを見つめつつ、カリオペは微笑む。
 こうしたヒュメンの、役目に忠実たらんとする誠実さがまた、娘達の心を虜としてやまない一因である事を、彼女は知っていた。

「おまえの評判は、私の耳にも届いていますとも」
「これは重畳(ちょうじょう)。母上に認めて頂けたならば、私が神代に生を享けた意味の半分は満たされたも同然」

 ヒュメンは優雅に、母の手の甲に額をつけた。

「あら。それでは、後の半分は?」
「それは勿論」

 顔を上げたヒュメンが、内側に太陽の光を抱いたかのような輝かしい笑みを浮かべた。

「我がたった一人の弟、オルフェウスに、祝婚歌を歌ってやる事ですよ」



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