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「それで?」

 竪琴が最後の一音を奏で終えた後、玉座の主は、冷やかに言った。
 その冷厳さの中に、オルフェウスの語った詩に心を動かされた様子は全く見えない。
 王はただ、暗闇の、更に奥深い深淵を覗き込んだような瞳で、ひたとオルフェウスを見据えているだけだ。
 竪琴を握り締め、オルフェウスは再び顔を上げた。

「お願いします、黄泉の王ハデスよ」

 神の血筋とはいえ、たかだか人間如きが口にするには畏れ多いその名を呼び、オルフェウスは懇願する。

「冥府へ下った私の妻は、この死者の国に今もいる筈……。どうか、どうか私にお返し下さい!」

 辛うじて冷静を装っていた青年の表情が崩れ、訴えかける声が大きく震えた。

「それだけの為に、生者の身で、この冥界まで下って来たと?」

 死者の川を渡り、地獄の番犬が守る門をくぐり、天を突くような山を越えて。まさしく死ぬような思いをして、青年は、ここへとやって来た。この、冥界の王の前に。

「私にとって、エウリュディケは宝です」

 けれど、それら艱難辛苦など何ほどの事もないと言いたげに、オルフェウスは言い募る。
 地獄のような道程を踏破している最中も、引き返そうなどという考えは、一度たりとも浮かぶ事はなかった。その闇の帳の向こうで、妻が自分を待っていると思えば、疲れ果てた足は再び力を得た。

「それが、分不相応な願いと承知しておろうな?」

 ハデスの双眸が、初めて感情の色を宿し、思案するように細められる。

「いかなカリオペの息子とはいえ、貴様は単なる人に過ぎぬ。三界の一角を担うこの私に、頼みごとをできる立場と思うてか」
「不遜は承知しております。なれど……」

 オルフェウスは、拳を握り締めた。

「それができぬなら、私もエウリュディケの所に! この命を取って、彼女と同じ場所へお送り下さい」



 そこで初めて、ハデスの表情が、わずかなりと動いた。

「死者の王たる私に、情けを期待するとはな」

 その唇に、ほんの微かにだが笑みめいたものが昇る。
 オルフェウスには、その意味を計る事は叶わない。
 死んだ妻を一途に求めて、地の果てまでやって来た男に、黄泉の王といえど多少なりとも心を動かされたのか。それとも、ただの嘲笑に過ぎないのか。
 しかし彼の考えが帰結するより先に、ハデスは低い、良く通る声で言った。

「よかろうよ」

 オルフェウスの目が見開かれる。

「貴様の妻は返してやろう。ただし貴様が、私との約束を守れたならば」

 オルフェウスの顔に、輝くような歓喜が満ちた。

「本当ですか! ああ、感謝します、死者の王よ」

 己の顎を撫でた冥府の神が、再びふ、と笑みを浮かべる。

「では貴様はすぐさま、この国を出るがよい。冥府に生者の居場所はない。その輝きは、死者の魂にも無用の嘆きを与えよう」

 真剣な面持ちのオルフェウスに、王は続けて言う。

「貴様の妻には、その後ろを付いて行かせる。そのまま行けば、二人共に生者の国に戻れよう。……ただし冥界を出るまで、決して妻に話し掛けたり、振り向いたりしてはならぬ」
「それが条件なのですか」

 是、と王は鷹揚に頷いた。

「わかりました、お約束いたします」

 必ずや、とオルフェウスは首肯する。
 そんなことでエウリュディケが己が元に帰って来るというのなら、ハデスの試練はあまりに容易いものと言わざるを得ない。
 決意を胸に、玉座の前を辞したオルフェウスの後ろ姿を、闇の王はただ、じっと見つめていた。
 永久凍土よりもなお冷たい輝きをたたえた銀の瞳、その中に、ほんの一瞬、禍々しい深紅が宿る。
 けれど王の居城を後にした青年が、それを目にする事はなかった。



 傍らにしっかりと竪琴を携えて、オルフェウスは歩いた。
 行きと違い、彼の歩みを妨げようとする者は誰もいない。熾烈(しれつ)な苦痛を強いた地も水も火も、何ら障害にはなり得なかった。
 足取りはなだらかで、淀みがない。
 ……しかし、それでも尚、オルフェウスの心は千々に乱れる。まるで暗い奈落に引きずられるように。

 ハデスの言葉を聞いた時、その胸には喜びが満ちた。
 一度は失った、ただ一人の人を取り戻せるという、言葉に尽くせぬ歓喜。
 それは彼女を失くした時の絶望と表裏をなす。
 けれど、その喜びが深ければ深い分だけ、一歩歩みを進める毎に、澱のように心にくすぶる不安は増した。
 冥府の凍えるような空気が、死者の匂いが、それに拍車をかけた。
 交わした約束の通り、黙したまま歩くオルフェウスの脳裏に、ふと、先程邂逅した死の国の王の姿がよぎる。
 神の名に相応しい風格と威厳とを併せ持ちながらも、値踏みするように冷徹に己を見下ろしていた瞳。
 神族の中でも殊更に有力視されるハデスだが、普段は冥界という地の奥深くに篭もっている為か、地上にまで姿を見せる事は滅多にない。けれどその性質だけは、噂となって洩れ聞こえてくる。

 兄ヒュメンからも、昔、僅かだが聞き及んだ覚えがあった。
 かつて大地母神から娘を奪い妻とした、氷の刃の如き、かの君の冷徹さと、それとは裏腹な獰猛さ。
 背後を付いて行かせるとハデスは言ったが、本当に、その言葉を信じても良いのだろうか?
 オルフェウスの後ろからは、足音はおろか、微かな気配すらも伝わってはこない。
 耳に響くのはただ、地の底から吹いてくる風の音だけだ。
 以前抱いたエウリュディケの体は、まるで羽根のように軽かった。けれど足音すらもしないなんて。
 にわかに心に立ち込めた暗雲が、オルフェウスの心を黒く覆ってゆく。
 そもそもハデスは、本当にあれだけの条件で、死者の魂を返す事を了承したのだろうか。死者を生者の世界に返すのに、あの条件はあまりに容易くはなかっただろうか。
 ……あの瞬間の、ハデスの笑み。
 それはオルフェウスを罠にかけようとする者のそれではなかったか?
 彼が語った事は真っ赤な偽りに過ぎず、自分の後ろには、ただ果てのない闇が横たわるばかりではないか。
 冥界に赴いた異分子たる自分は、体よく追い払われただけではないのか。
 そんな疑問が、尽きる事なく次々に脳裏に浮かぶ。

 ……だが、いいやとオルフェウスはかぶりを振って、そんな考えを追い払おうとつとめた。
 いかに冷酷な神とはいえ、ハデスは三界の王の一人。
 容易く他人を陥れるような真似はすまい。疑心は即刻捨てるべきだ。
 けれど振り払っても振り払っても、疑念は尽きる事なく湧いてくる。
 青年の額に、冷や汗がにじんだ。
 己の心臓が、大きく鼓動を鳴らす。
 確かに一度通った筈の道程は、まるで永劫のように長く長く感じられた。
 すがるように握り締めた竪琴もまた、冥府の冷気を吸ったように冷たく、彼を安心させはしなかった。
 振り返ってしまいたい。
 振り向いて、そこに愛する妻がいるのかどうかを確かめたい。
 それは禁忌に触れる行為であるとわかってはいたが、誘惑はひたひたと、オルフェウスの足元に忍び寄る。
 もしもそこにエウリュディケがいるならば、しっかりと、この両腕で抱き締めて、そのまま地上までさらってしまえばいいのではないか。

「……駄目だ」

 歯を食い縛り、オルフェウスは懸命に、誘惑の手に抗った。
 そんな事をして、もしもハデスとの約束が反故(ほご)になったらどうする。もう取り返しがつかない。
 今は死人(しびと)達の王を信じて、先へ進むしかなかった。
 永遠に続くかと思われた断崖を歩み、とうとう、その先に微かな光明が見える。
 それが地上の光だと、一目でわかった、
 オルフェウスの心に巣くった疑念が霧散し、かわりに希望と歓喜が広がる。
 あそこまで辿り着きさえすれば、エウリュディケを、再びこの腕に抱く事が叶うのだ。
 あの幸せな日々が戻って来る。
 それは、どんな詩でも言い表せないだろう幸福だった。
 ……先程までの身を焦がすような焦燥が、ゆっくりと解けてゆくのを感じる。それがハデスの仕掛けた試練であったとしても、自分は、それを乗り越えたのだ。
 エウリュディケを連れて戻ったら、まず何をしようかと考える。
 この両腕で抱き締めて、その髪を撫でて、口付けて。
 何よりも、その声が聴きたい。
 小鳥のような声で、愛の歌を歌って欲しい。
 共に暮らしていた時の、かけがえのない幸せが、思い出と共に胸一杯に満ち、オルフェウスは至福に包まれた。
 もう少し、あと少しで彼女の声が聴ける。
 幾夜も焦がれ、眠れないまま追い求めた、たった一つの声が。
 さあ、あの日のように。

「歌っておくれ――エウリュディケ――

 ただ、その声を求めて。
 オルフェウスは振り返った。
 あの森で、自分の後ろを楽しげに付いて来る妻に、いつもそうしていたように。
 ……刹那。
 オルフェウスの目に、悲しげな妻の顔がやきついた。
 一杯に見開かれた両眼に映っていたのは、愛しさと哀しみと、そしてオルフェウスを責める色。
 その瞬間、詩人は自らの過ちを知り、己を呪った。

「……あぁ……!」

 その顔に満ちるのは絶望、こぼれ落ちたのは悲痛な悲鳴。
 彼がその手を伸ばすよりも早く、唐突に吹き荒れた冷たい風が、エウリュディケの魂を奪い去り、再び黄泉の果てへと連れ去った。
 僅かな声も、体温も、恋しい相手に届く事はなく。
 後には死のような静寂と、暗闇だけが残るのみ。
 オルフェウスはただ、呆然としたまま立ち尽くす。

 誰かが嘲笑う声が、遠く晦冥(かいめい)の果てより響いた。