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 天を突くかのごとくそびえ立つ、大地を隔てた壁にも似た稜線(りょうせん)。
 険しい山々の頂は厚い雲に覆われ、下界に住む人間には、その輪郭すら垣間見る事は叶わない。
 そこは神域と呼ばれる神々の住いの一つ、ヘリコン山である。

 
 資格を持たざる者は、たとえ何者であっても辿り着く事の許されぬ神の世界。
 遥か世界を展望する絶景を臨み、草木が青々と生い茂る場所に滾々と湧き出すのは、天馬が鋼よりなお硬い、その蹄(ひづめ)で抉り裂いて創ったという神泉。
 その湖畔に、八人の乙女達が今、思い思いにくつろいでいた。

 泉が湛えた澄んだ清水も、彼女達の纏った衣もすべて、内側から淡く光を放つかのように輝いている。
 そしてそれ以上に、その情景を人の世界ならざるものせしめているのは、他ならぬ娘達自身の美貌である。
 彼女らはいずれも、この世のものとは思えぬ麗しい造形の持ち主だった。
 けれど、いささかの穢れをも入り込む事を許されない、大神に守護された聖域にあって、乙女達の表情は、一様に物憂げである。
 手に手に杖や笛、竪琴などの小物を携え、彼女らは湖畔に、華奢なその身を置いている。

「カリオペお姉さまは、まだお帰りにならないのかしら?」

 少女のようにあどけない容姿をした娘が、うっとりするような甘く、愛らしい声で囀った。
 それに応えた声は対照的に、凛とした響きを帯びている。

「まったく、腹立たしいこと。あのような瑣末な事で姉様を煩わせるなど、不遜なる事はなはだしい人の娘よ」

 不快さを隠そうともしない声音は、けれども、まるで天上の鈴を振ったかのごとく麗しい。

「落ち着きなさいな。まだ、お話を受けると決まったわけでもないのよ」
「けれど人の娘が私達に、歌勝負を挑んで来たというのは本当なんだろう?」

 杖を手慰みにもてあそびながら、また違う娘が口にする。
 誰のものとも知れない嘆息が、その場に落ちた。

「ねえ、それは本当の話なの?」
「信じられないわ。そんな無謀な事を考える人間がいるだなんて」

 純粋な驚きにのみ支配された幾つもの言の葉に、さて、と平坦な声が答えた。

「本来であれば、君達の言う事が正しいのだろう。けれど人の世には時折、思いも寄らぬ事を考える者が現れるものなのだよ。そして、そういった輩はえてして、自らの過ちに気付く事は少ない」

 凪いだ湖面のように静かな眼差しで言った乙女が、たおやかな手をそっと、泉にくぐらせた。
 透き通った水面に幾つかの波紋が広がり、やがてその表面は、鏡のように一つの像を結ぶ。
 思い思いに泉の周囲を囲んだ乙女達は、興味深げに、澄んだ水鏡を覗き見た。


 晴れ渡った空に、小鳥のさえずりにも似た声が響く。
 ――そこは、花園だった。
 色とりどりの花々が咲き乱れ、艶やかに、あでやかに妍(けん)を競う。
 もしもその中に紛れ込み、光景を垣間見る者がいたとしたならば、この場所こそが神の国であると見紛うただろう。
 それ程に、花園は秀麗に整えられ、その華やぎで訪れる者の目を楽しませんと、そこに存在していた。
 けれど、その僥倖(ぎょうこう)にまみえる事のできる者は、決して数多くはない。
 ここは、たった数羽の小鳥達の為だけに誂えられた、箱庭の楽園なのだから。

 
 贅(ぜい)を凝らした花園に咲き乱れるのは、花よりもなお麗しい娘たち。
 それぞれに、花園と同じく色彩鮮やかなドレスに身を包み、幸せそうに笑っている。
 その姿は、どんな花よりも艶やかで、そして美しい。

 東屋に座した一人の娘が桜色の唇を開き、一つの音律を紡ぎ出した。
 他の娘達もまた、ごく自然に唱和する。
 重なり合い、絡み合う歌声はやがて一つのうねりとなり、庭園に朗々と響き渡った。
 それはこの世のものとも思えぬ調べ。
 やわらかな春風は祝福を送るかのごとく、彼女らの周囲をゆったりと取り巻き、軽やかなドレスの裾、絹糸のように艶めく髪を靡(なび)かせる。
 花々は艶々と輝きを増し、空を飛ぶ小鳥達もまた止まり木に翼を休め、音楽に心地好く身を任せているかのようだった。
 それを知ってか知らずか、歌い上げる娘達は、互いに瞳を見交わして、満足げに笑みを浮かべる。

 ……彼女達は、己の歌声の価値を知っていた。
 そして歌うこと、それによって称賛を浴びる事に、誇りを持っていた。
 この身に与えられし、たぐいまれなる楽才は、神が手ずから与え給うたもの。
 娘達は、そう信じて疑わない。
 そうでなければ、これほどの才覚を、歌声を、たかが人間が手にする道理はあろうか。
 その美声に劣らぬ麗しい容貌の姫君達が、この世の楽園にも等しい花園で歌い競う様は、まさしく天上の光景と言うに相応しい。
 そこかしこに座した娘達の数は、全部で九。ここマケドニアの地を治めるピエロス王が、掌中の珠の如く慈しむ王女達である。
 神をもとりことする美声の持ち主として持て囃され、その名は国の内外にまで、広く知れ渡っている。彼女達の歌を、一度でも耳にする機会を持った稀有な幸運の持ち主ならば、誰もが噂は真実であったと納得するだろう。

 やがて九つの声が織り成すハーモニーはゆっくりと収束を迎える。
 無音の庭園には再び、甲高い小鳥の鳴き声だけが満ちた。

「お姉様のお歌、今日も素晴らしかったわ」

 歌い終えた娘の一人が瞳を輝かせて、感嘆と満足の溜息を零した。

「あら、おまえの声こそ見事だわ。先日王宮に呼んだ、国一番と評判だった吟遊詩人など、到底足元にも及ばなくてよ」

 そう言って嫣然と微笑んだ姉の隣で、異なる娘が口を開く。
 残酷なまでに無垢な笑みを、その愛らしい美貌に浮かべて。

「ふふふ、彼のお歌も悪くはなかったけれど、お姉様がたの歌と比べてしまっては、まるで萎れた花のよう」
「あの青褪めた顔、ごらんになって?」

 悪気の欠片を寸毫(すんごう)滲ませぬ声で、口々に彼女達は笑った。
 それが高慢な行為であるとは考えもしない。なぜなら彼女らは、正々堂々と歌勝負をし、くだんの哀れな詩人に競り勝ったのだから。
 勝者に与えられる報酬、それは名声と、人々が上げる称賛の声。そして揺るぐ事のない自信。この手に得て然るべきものを、彼女らはただ当然のごとく享受したに過ぎない。

「気の毒だけれど、仕方がないわ」

 無邪気に笑って、末の姫が、夢見るように言った。

「だって私達は、ピエリスなのですもの」

 神々の山オリュンポスに御座す、音楽と文芸を司る九人の女神――ムーサ。
 その二つ名こそが、ピエリス。
 父王の土地ピエリアの名を取って、ここにいる九人の王女もまた、同じく歌姫ピエリスの名を冠された。
 彼女達と同じく九人姉妹であり、歌唱を得意とする女神達の存在は、まるで自身がその分身となったかのような錯覚を、王女達に抱かせるに充分だった。

「私達は、恐れ多くも神の名をいただいた存在なのよ。人間の歌い手になど、負ける道理がないもの。そうでしょう?」

 歌うように節をつけて娘が嘯(うそぶ)き、そして笑う。

「……けれど、つまらないわね」
「あら、何がかしら?」

 頬杖をついて、愛らしい唇を尖らせた娘に、視線が集まる。
 だって、と少女は両手を広げて見せた。

「もう目ぼしい歌い手は、全て王宮に招いてしまったじゃないの。しばらくは、歌比べもお預けね」

 その言葉に、他の娘達もまた同意を示すように目を見交わし、肩をすくめる。
 自らの地位にものを言わせて、彼女らは今まで、数多くの歌い手を、自らの居城へと招いて来た。
 そして高価な宝石や、一生暮らせるだけの財、王宮内での地位を条件に彼らに歌勝負を承諾させ、その全てにおいて、例外なく勝ちをおさめてきた。

「もうマケドニアに、いいえ世界を探しても、これ以上名だたる歌い手などいないもの。ああ、なんて退屈なのかしら! とても耐えられそうにないわ」

 彼女らにとっての歌勝負とは、ただ、自らの虚栄心を満足させるだけの手段ではない。それ以上に、人々の上げる喝采の声だけが、少女達の底なしの渇望を満たすのだ。
 自らの美声に、うっとりと聴き入り、熱狂する聴衆の表情を見下ろす瞬間の愉悦ときたら!
 それは何と心地の好いことか。
 もっと聴いて、私の歌を。こんなものではないのよ、本当はもっともっと、素晴らしく歌えるのだから――。
 誇らしさに胸を張り、そうして彼女達は歌い続けて来た。
 傲慢とさえ言えるほどの自信と自負、それこそが、その声を姿を、より一層輝かせる。

「もっともっと歌いたいのに。沢山の人に、歌を聴いて欲しいのに」

 ほう、と小さな吐息が、可憐な唇から零れ落ちる。

「まったくだわ。たとえ神々の御前に召されたとしても、私、きっと恥ずかしくない歌を聴かせられるのに」

 他の姉妹が、彼女の言葉に追随する。
 一つの声が、その中に落ちたのは、その時だった。

「諦めるのは早くてよ」

 語調は決して強くもなく、声も大きくはなかったが、それでも口々にお喋りをしていた娘達は、ぴたりと口を閉ざして、そちらに目を向ける。

「キュリエお姉様」

 一人の娘が、その名を呼んだ。
 ……そこに立っていたのは、王族に相応しい威厳と、咲き誇る白百合の如き美貌、息を飲むような高貴さと気品とを併せ持った、一人の乙女だった。
 王女キュリエ、マケドニアのピエリスの長姉にして、その美しさ、歌声、賢英さは、姉妹の中でも際立って優れていると、人々はこぞって口にする。
 そう、畏れ多くも、同じく美貌と知性の顕現たるムーサ姉妹の長姉にさえ、引けは取らないであろうとも。

「歌比べのお相手は、まだ残っているのではなくて?」

 泰然と言い放ったキュリエ姫は、挑戦的に輝く瞳を一巡させ、愛しい妹達を見回した。それだけで全ての姫が、それまでかしましく囀っていた口をぴたりと閉ざし、自分達の姉たる王女の言葉に耳を傾ける。
 そこには彼女達の、長姉に対する底知れない敬意と信頼が見て取れた。

「どういうことですの? お姉様」

 それまでただ黙して彼女らのお喋りに耳を傾けていた姉の発した言葉に、下の妹が、やや幼げに問い掛ける。
 ゆるりと笑みを返してやってから、キュリエは立ち上がった。
 花園の階段を一段一段のぼり、最上段まで辿り着いたところで、妹達を振り返る。

「ねえ、おまえたち。歌勝負を、してみたいとは思わなくて?」


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