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 世界中から集められた色とりどりの花々に飾られた舞台で、九人の娘達が、声を揃えて歌っている。
 幾つもの美しい声が重なり合い、紡ぎ出されるハーモニーは、まさに極上の調べ。
 満開の花束に似た美姫達の奏でる歌の見事さに、全ての聴衆が、陶然と聴き惚れた。
 それは、地上一の名を冠するに相応しい歌声だ。
 その演奏にけちをつける事ができる者など、この場には誰一人としていはしなかった。
 それほどまでに、乙女達の合唱は麗しく、人々をことごとく魅了する。


 その日彼女達は、今までで最高の歌を、最高の声で歌ってみせた。
 いかな王女達といえど、生涯で、これほど晴れがましい日は、きっと二度とはやっては来ないだろう。
 今日、彼女らと歌比べに臨む相手は、宮廷の詩人でも、街角の歌姫でもない。
 本来ならば天上に住い、人間ごときが目通りする事すら叶わぬ、神の世界の住人なのだから。なればこそ自分達も、晴れの日に相応しい、生涯で最高の歌を。

 その気概を示すように、高らかに響き渡る歌声は、おそろしいまでに澄み渡っていた。
 歌い終わると同時に、嵐のような万雷の拍手と歓声が湧く。
 初めて耳にした者は目を瞠(みは)り、そうでない者は感激を隠そうともせず、惜しみない賞賛を姫君達に贈った。
 それに応えて、王女らは満足げに笑みを零す。
 人々から贈られる讃辞はもはや、彼女達にとって、何ら珍しいものではなかったが、それでも今日だけは、特別なものと感じる。

 これから競うのは、今までに勝負をした誰とも比べ物にならない相手であるからこそ。
 けれど相手が女神といえど、自分達が負ける、などという考えは、彼女達の中にはなかった。
 王女達が披露した歌は、これまでに歌ってきた、どんなものよりも優れていた。自分達自身ですらも、その出来栄えに惚れ惚れするほどの、最高のものだった。
 最早何者であろうとも、そう、たとえ天上におわす女神であろうとも、自分達を打ち負かす事などできないという自信を持っても無理なきほどに。

 無論彼女達は、それを思い上がりであるとは、わずかも考えなかった。
 これまでに幾度となく繰り返したこと、そしてその度に人々の感嘆の視線と讃辞の声は、常に彼女達だけのものであり続けた。
 それが自分達以外の誰かに向けられる光景など、王女達にとっては想像する事すら不可能なものでしかなかったのだ。

 誇らしげに前へと進み出た彼女達は、聴衆に優雅な礼を送る。
 詰め掛けた国民の誰しもが、自国の姫が女神をも下す瞬間を心待ちにし、この場に集った事を疑わない。
 そして、想像した。
 自分達の歌が、ムーサのそれよりも優れていると認められたならば、果たしてどうなるのだろうと。
 音楽の神をも上回る美声を誇り、神泉までも手にすれば、オリュンポスの神々すら、自分達を無視などできなくなるに違いない。
 ひいては、世界中の人間が真なるピエリスと讃えるのは、ムーサではなく、この自分達となるだろう。それはすなわち、自らが、この世界で最も尊い歌い手となった事の証明でもある。
 それは何ともいえず心躍る想像であり、彼女達を夢見心地にさせた。
 そして娘達が、期待で早まる鼓動に胸を膨らませていた時だ。

 唐突に、その場に、目もくらむような光が満ちた。
 とても目を開けていられずに、まぶたを伏せる人々の前で、視界を白く染め上げた光は、ゆっくりと収束する。

 光は、舞台の中央に、人一人分ほどの大きさの楕円を形作った。
 その光の正体を知る事のできた者は、その時、その場にはいなかった。
 だが一つ確かなのは、白い光、そして光と共に溢れた風が、息を飲むほど清浄な大気を、その場に運び込んだという事だった。他ならぬ、神の世界のそれを。

 大地と生き別れになった切り花さえもが生き返ったように色艶を増し、天を飾る太陽までもが舞台に祝福を贈るかのごとく、惜しみない陽光を降り注ぐ。
 白光の中に淡く人影が浮かび上がり、そしてそれは、聴衆の前に悠然と姿を現した。
 瞬間、その場にいた全ての者が、呼吸を止めた。

 現れた女神は、それほどに美しかった。
 鮮やかに染め上げられた、極上の薄絹の衣を纏う乙女は、そんな人々の反応など微塵も意に介する事なく、ただ一巡、その場に視線を巡らせて、脇へと退いた。
 その後に続いて、二人目の女神が姿を現す。
 彼女もまた、最初の乙女に引けを取らぬほどの美しさだった。
 結った長い髪が揺れる度、そこから細かな耀(かがよ)いが零れ落ち、宝石よりも煌びやかにその身を飾る。
 彼女は、ちらと口元に笑みめいたものを浮かべたが、しかしすぐにそれを消し去って、同じように傍らへと歩を進めた。
 そうして一人ずつ、王女と同じピエリスの名で呼ばれる歌神が、壇上へと姿を現す。
 その間、静まり返った場内からは、一言たりとも声が上がる事はなかった。
 みなが息を詰めるようにして、ただ舞台の上を、食い入るように見つめている。
 言葉もないとはまさに、この事を言うのだろう。
 美の女神アフロディーテもかくやという美貌の女神達の降臨に、誰もが音もなく、両眼を凝らした。

 ……そして最後に。
 一人の女神が、舞台の上に、足を踏み出した。
 歩みに従って、高く結った髪の一房と、長い衣の裾とが、さらりと揺れる。
 ただそれだけの動作さえ、目を瞠るほどに典雅だった。
 まるで体の総てが、心地好い音楽で形作られているかの如く、存在自体が大気を震わせ、世界が歓びに鼓動を始める。


 ――その女神は。
 最初に現れた乙女ほど、気品に満ち溢れてはいなかった。
 二番目に現れた乙女ほど、可憐ではなかった。
 三番目に現れた乙女ほど、溌剌(はつらつ)としてはいなかった。
 四番目の乙女ほどの清純さはなく、五番目の乙女ほどの華やぎはなく、六番目の乙女ほど理知的ではなく――けれど。
 けれどその女神は、先に現れた八人のうちの誰よりも、間違いなく、一等美しいのである。
 凛とした瞳は聡明に輝き、小振りの唇は、まるで薔薇の花びらで染めたよう。滑らかな曲線を描く頬は薄紅色に色付き、折れそうに華奢な手足は雪のように白い。
 この世のどんな宝石も、こうも美しくはあるまいと、そう思わせる双眸(そうぼう)で、彼女は一度、空を見上げた。
 自分達に歌比べを望んだ王女にも、それを許した王にも、溢れるほどの聴衆にも、全く目を向ける事なく。
 そして傍らに携えた竪琴を構えると、ほっそりとした指先で、優雅な音色を奏で始めた。

 女神が、最初の一音を爪弾いた瞬間に。
 ……世界は、彼女の奏でる音の支配下に落ちた。
 竪琴の音色と絡み合う歌声は、確かに神の国のもの。
 その場の誰もが、この世のものとも思えぬ美声と旋律に聴き惚れ、息をする事すらも忘れかける。
 聴覚以外の全ての感覚が遮断され、知覚できるのはただ、女神が紡ぎ出す極上の調べのみ。それほどに圧倒的な存在感、花嵐にも似た音楽の洪水。
 音楽を聴いている、そんな認識さえも曖昧だ。
 これは、そのような簡単な言の葉で語れるものでさえない。
 これこそが芸術であり、至高の文化の極みだと。
 頭から足の先までが、音の奔流に飲み込まれ、押し流される――そんな錯覚に押し流される。
 その瞬間全ての者が、この心地好い嵐の中にいつまでも身を浸していたいと、めまいがするほどの幸福の中で熱望した。そして何れは、この至福の時間が終わる時が否応もなくやって来る事に、絶望を覚えた。


 透き通るような女神の声が、娘を奪われし大地母神の嘆きを語る。
 その悲しみ、その愛情、その痛み。
 女神のもたらせし音楽は、どんな言葉よりも雄弁に、彼女の心を切々と語る。悲嘆に狂う大地の女神の姿を、いままさに目の当たりにしているかのように、それを聴く者の目から、ひとりでに涙が溢れ落ちた。
 綾織(あやおり)のように複雑に絡み合い紡ぎ出される竪琴の音色が、女神の美声に清流の如く寄り添って、尚も輝きを塗す。

 この瞬間、世界に、この場所よりも素晴らしい地は存在しえなかった。神々の国オリュンポスにさえ。
 女神の紡ぐ音楽は、あまねく大気と大地とを、黄金色に染め上げる。
 それこそが、女神の織り成す天上の調べ。
 それこそが、音楽を司る女神ムーサの奏楽。
 この世の何者にもおびやかす事の叶わぬ、神の国の音色。
 最後の一音まで、繊細に、大切に音を紡いで、そして女神は演奏を終えた。


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